家具の視察で久しぶりに関東に行きました。
とある家に古い家具が納められたという、誰かが設計した新築の場所に、どんな使い方をしているのか知りたくて。
家に辿り着くまで、話をした建築家さんの言葉で意識した歴史的環境、地形的環境、そして自然環境のなか、施主さんと建築家さんのカタチの中におさまる家具を見て、その一体感とそこに流れる思想に触れてただただ、ワクワクして、感じ入りました。
高揚感に支配されてしまい、腰を据えて感じる心地好い落ちつきさは、身を置いたときの想像もあるかもしれませんが、それでもそれでも。
直感的に溶け込む感覚です。
これから施主さんたちと変化していく、建物と住空間。
数歩すすんだけのタイミングで、なかなか見せていただく機会はそうないだろうと思う緊張の玄関。出る時には嬉しくて、短い滞在でも充実した時間を過ごしました。
その充足感は、建物そのものが与えてくれるもの、自ら気になる場所へと身を動かし視線を向け感じるもの、その両方からくるものでした。
そこで語られた建築家さんの思わくのよさ。そして施主さんの思わくに思わず息を吐き納得していました。
ある地点から見た室内に、世界樹という言葉がでてきたのですが、それは単に見る、見たで得たイメージです。
施主さんの語らいには、ご自身の思わくがこめられていて、これがまさに。
その場で得た単なる情景の感想とその場で生活をしてゆくなかでの思想との違い。
その奥深さに。ただただ、ふぅっと。
それから帰りの飛行機の時間を遅らせていたので、以前本で見て、常々行きたいと思っていた東京駅前Kitteにあるインターメディアテクに寄りました。
新しく設置された空間ですが、東京帝国大学時代から使用された家具と博物館什器。そして収められていたモノが、場所を変え、陳列されています。
そこに在る陳列する意図は、陳列されるモノの存在からモノを観せていた空間に置き換えられているかのように感じました。勿論、当時の場を切り取り再現している空間もあります。
今日、共にその空間に居合わせた人たちを見ると、本来の陳列される目的の理由が後付け的であるけれども、見る側は、本来あった理由として、そこに陳列されたモノを見ているように思いました。
意識して範囲を広くした視線の先にある、幾つかの別テーマなモノが存在していても、ただその場に調和して鎮座しているモノを見ているかのようにです。
破損した標本は、活きる標本の価値を損ない、廃棄されうる対象にもなる、危うい存在として博物館などではお蔵入りしてしまいますが、ここでは標本といわれていた魅せられるモノへの変化も遂げています。
その中で、本来モノを見せる行為の中では脇役であり、見せるまでの過程で、作業をし、保管をし、モノではなく人の意思でカタチになった家具。隙間や欠損した部位を剥き出しにし、色褪せながらも、新たなしつらえの中で、ぽつりと浮かび上がり、主役たらん脇役を演じているように見え、陳列されたモノ同様に愛でてあげたい対象になっていました。
それを古家具を扱うヒトの色眼鏡と云うとか云わぬとか。
ただそこにも、とある家で感じた一体感を覚えます。
居住空間という、プライベートの空間も公にオープンな空間も、一体感に満ちた空間は、同じ感動を与えてくれました。手を加えられた場に置かれる古いものの具合と人との距離。違う場所でもそこに心地よさを感じていたと思います。
半日を振り返った飛行機のなかで、その感動の奥底で通じる想いを書いています。
地に足を着けず、空の上で言葉を綴る不思議さもちらちら頭をよぎりながら、場面場面を思い出して。
今回は、一体感に目を向けていました。ヒトの存在とヒトの魅力があって、様々なモノの存在に反映されている事も感じました。
そんな気持ちのなか、古い家具たちを愛でる以上に手を触れて、いのちの先まで、その魅力が風化しない程度の手伝いを。
これからも得られるその機会を愉しみにしていきたいと思います。
追記
写真は帰りの飛行機。子どもかってぐらい反応した眼下の灯りに意識を持っていかれました。
着いてすぐに江戸東京博物館で、江戸から東京への追体験。
加えて東京駅や帝大に収まっていたモノに触れた時間を過ごしてたので、江戸!トウキョウ!って子どもみたいに。当時は東京湾に反射する月明かりぐらいだったんかねーとちょっとな昔を想っておりました。
飛行機のなかで書いた文に加筆もしております。